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田植えを振り返って

6月9日、無事に田植えキャンペーン2024の完了を迎えた。「麦は里から、米は山から」と言い習わされているので、里の方でも田植えが始まっている中少し焦ってはいたが、苗が十分に育って植えやすかったので却ってこれくらいでも良いのかもと思っている。今年からは以前よりも植え幅を広くし(30x30 → 30x40 いずれもcm)、田植え、そして何よりも田車除草の省力化を図ってみた。

獲れ高がどの程度変わるのか(除草が進むことによってむしろ安定しかつ増えるとの期待)はまだわからないが、楽しみである。今回もたくさんの方にお手伝いに来て頂き、楽しく終えることができた。年々少しずつ田んぼの構造を変え、歪な形の田んぼの端を付帯施設化(取水後のプールとして水を温めるゾーンなど)していき、実質的な稲作エリアが減ったり、植え幅を変更したりで、おそらく作付けは1.5反(1500平米)くらいだが、苗取りに32人時間、田植えに43人時間の工数がかかったことになる。なるべく機械や外の資材を使わない農法を採用しているので精米1kgあたりの石油由来の二酸化炭素排出量は360g(概算値)程度に抑えられている(慣行栽培では2kgとの研究もあるので大幅なGHG削減)ものの人的労力をいかに軽減するかが今後の持続性の課題である。

 

数年前からいつも通り田んぼの端に苗床を作り地植えして育苗している。育った苗が剥がれやすいように秋に地表に有機資材(ワラ、もみ殻、米ぬかなど)を置きその上に5cm土を盛って畝を作る。今回は資材の一部として麦わらを使ったことで、冬の間に分解し切らず、剥がれやすさの向上(=労力の軽減)につながったように思うが、もっと抜本的な省力を図れる小規模稲作ならではの技術を模索したい。いっそ育苗をやめて直播に振ってみるのもありかもしれないが、田んぼに生えてくる雑草をどのように除くかが悩ましい。

さて話は変わるが、苗取りの最中、よく出会う生物としてオケラがいる。苗床の土中に巣穴を作って潜っているので、苗を取るために掘り返すと慌てて出てくるのだ。今年もおそらく数十匹に出会った。可愛いので苗床の外の安全な陸上に逃がしたくついつい捕まえてしまうが、小さいのに力は強く手を殴られたり噛まれたり挟まれたりして結構痛い。でもそんな痛みにフッと思い出すのは、「手のひらを太陽に」の歌詞。なんで登場生物が、オケラやミミズやアメンボなんだと不思議だったが、「舞台は田畑だったんだ!」と合点がいく。

こんな風に、色々な場所に身を置くとそれまで不思議だったものがストンと納得できる時がある。思い出すのはタンザニア、セレンゲティの大草原をぼーっと眺めていた時だ。現地の諺に「milima haikutani lakini binadamu hukutana(山々は出会うことはないが、人間は出会うものである)」というものがある。外国人に人気のある諺ではあるのだが、私にはいまひとつピンと来なかったのだ。何せタンザニアの方々は何から何まで運任せ。明日会おうね、と挨拶しても返ってくるのは、「tukijaliwa(神が望めばね)」。自然環境が厳しく確たる未来は見えない中で生きているので神任せ/運任せの考え方なのはよくわかるが、そんな人々が、「人間は出会うものだ」なんて言い慣わすかなぁと常々疑問だったのだ。しかし、セレンゲティでのこと。見渡す限り草原の続く中、地平線には薄らと山々が見えている。日中の暑さが厳しさを増し地面からの熱気でゆらゆらと蜃気楼のように山々も揺れている。そんな中地平線のこちら側をゆっくりと動いているものがある。遊牧民族マサイの牛(とヤギ)の群れだ。中央には群れを率いるヤリを持った牧人がいるに違いない。視界の端からまた一つ別の群れが動いているのが見える。こちらの視点も低いからそれぞれの距離はわからないけど、お互いの群れがゆっくりゆっくりとぶつかっていくようにも見える。多分、実際には重なって見えるだけで出会ってはいない。しかし、この光景を見た時に初めてあの諺の意味というか、人間の出会いをタンザニア人がどのように受け止めているかを体感として知ったように思った。

 

ふとそんなことを思い出しながら、オケラくんと戯れる苗取りだった。